1995年(平成7年)1月17日 午前5時46分、淡路島・神戸市を中心とした周辺地域を中心とした周辺地域を、マグチュード7.3の
大地震が襲いました。俗に言う「はんしん・淡路大震災」です。
死者・行方不明者6,436人、負傷者43,792人、焼失面積834,663m2を記録し、最大約310,000人の避難者を出した災害である。
 つい最近では中国の「四川大震災」そしてまた日本でも「岩手・宮城内陸地震」が発生しました。
地震についての詳しい詳細や、活動記録はインターネットやいろいろな書物で目にすることが出来ます。今回は1995年の阪神・
淡路大震災で実際に現場で体験し、報道されていない裏側をこのコーナーで発表したいと思います。
情報を提供して頂けるのは、震災当日ライフライン復旧作業で現地入りした会社役員Aさん。
 ※Aさんより言葉をU-na編集部において編集しておりますが、出来る限り真実に基づいた構成にしております。
 
 Aさんの会社は公安委員会指定の緊急車両を保持していた為、早速地元警察署へ赴き「進入禁止道路通行許可証」を
発行してもらい、Aさんと他4人の社員を連れ5人で現地に向かいました。
 その時点ではテレビ報道でも兵庫県の惨劇が報じられるようになっていました。阪神高速道路神戸線の倒壊が報じられ
全面通行止めとなっておりましたが、特殊許可車両の為、倒壊現場直前まで警察車両やNEXCO(当時の日本道路公団)の
緊急車両に挟まれ、走行することが出来ました。また、阪神高速環状線は逆送しました。
 阪神高速道路神戸線に入り、倒壊現場手前までは順調に進んだのですが、国道42号線に下りた瞬間より大渋滞が発生して
おりました。
阪神高速道路の倒壊現場は一車線通行区間になっていましたが、20台位の緊急車両がサイレンを鳴らしながら走行し、
ゆっくりではありますが走る事が出来ました。阪神高速道路環状線から神戸市東灘区の指定場所まで通常なら高速道路を
通り40分程度ですが、その時は2時間近くかかりました。
そして、東灘区より三ノ宮、そして元町へと続くのですが、生まれて初めて目にする惨状と、沢山のご遺体を目の当たりにして
初めて自分の使命感と震災の恐ろしさを思い知ったのでした。
 それから3日間、車中で仮眠を取ったり、消防暑や警察暑・指定された公共機関の詰め所で日々を過ごしました。
その時、私が目にした憤りをこのコーナーを通じて今の時期に発表させて頂きます。但し、あくまで私の感じた事であり被災
された方の大部分の方々が感じられた事とは異なる事もあろうかと思います。ただ、被災された方々以外の方が知られる情報
よりも私が現実に目の当たりにした事実は報道とは全く逆の事も多いと感じたからなのです。
 大人数だけで役に立たない自衛隊・全く役に立たない地方から来た派遣警察・一度も使うことの無かった地方から来た
大量の消防車・神戸の交通を麻痺させただけの救援物資搬送トラック・邪魔なだけの一般ボランティア・震災を営業活動に

使った携帯電話会社各社とコンピューター会社。

 
 等々をシリーズ化して今後発表します。